「敵は通り過ぎた」(2018.9.16)

投稿日:9月 16, 2018 更新日:

出エジプト記12:21~28

今日の箇所には、旧約聖書の中でも大切な過ぎ越しの出来事について記されています。モーセは何度もエジプトの王様に、イスラエルの民を3日の道のりの荒野まで行って、神様に犠牲を捧げさせて下さいと願いました。あくまでもそれは口実で実際はエジプトを脱出して民をカナンの地まで導いてゆく計画でした。しかし王様はそれを決して許さず、そのために神様が沢山の天災を下したにも拘らず、頑としてモーセの願いを拒否し続けました。ついに、神様は決定的な災いをエジプトの地に送られます。神様は国中の全ての長子を、人であれ、家畜であれ、ことごとく撃たれたのです。その災いを免れるため、神様はイスラエルの民の家の柱と鴨居には、屠った犠牲の羊か山羊の血を塗っておくように命じられました。その塗られた血が目印となって、滅ぼす者は、その家の前だけは通り過ぎていったのです。神様が特別にイスラエルの民を救って下さった、この過ぎ越しの出来事は、過越祭としてこの後イスラエルの民の重要な行事となってゆきました。
この昔の出来事を、今、私達はどうとらえたら良いでしょうか?家の入口と鴨居に塗られた血とは、私達にあって何を表すのでしょう?
クリスチャンとして生きる私達が掲げる柱と鴨居に塗った血とは、まさにイエス様の十字架によって罪赦され、新しい命を頂いたことへの感謝を置いて他にありません。感謝がなくなり、傲慢になってしまったら、クリスチャンとしての「しるし」は消え失せます。「滅ぼす者」は決して通り過ぎずに、容赦なく心の中に侵入してくるのです。神様の愛に生かされて、その感謝と喜びを人とも分かち合えるような生き方こそが、柱と鴨居に塗られた、真の「しるし」となるのです。