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「うめきと嘆きの果てに」哀歌1章1~14節

投稿日:5月 31, 2019 更新日:

旧約聖書の中でも哀歌は暗い救いの無い書に思えます。

この書が書かれたのはBC585年にエルサレムが崩壊して間もない時期ではないかと言われます。あの華やかな都、祭りに集う多くの人、沢山の宝物、厳かな聖なる集会・・・。それらの全てが奪い去られてしまった。何もかも敵の手に奪われ、都は荒廃し、人々はバビロンという遠い捕囚の地に引かれて行った。「夜もすがら泣き、頬に涙が流れる。彼女を愛した人のだれも、今は慰めを与えない。友は皆、彼女を欺き、ことごとく敵となった。」(2節)それまでの生活が根こそぎ奪われてしまう。当たり前だと思っていたことが今は夢の又夢。想像したこともない恐ろしい現実が目の前に展開している。過去の栄光の日々。楽しかったあの頃。それが全部終わってしまった。哀歌の詩人は嘆きます。先ごろ3.11大震災で沢山の子供達が津波の犠牲になった石巻市大川小学校の出来事をめぐる丹念なリポートを読みました。

3.11大震災のその時、学校にいて犠牲になった児童は全国で75名。内74名が大川小学校の子供達でした。地震から津波に襲われるまで51分もあったというのに山に逃げることをしなかった。亡くなった子供達の親は裁判を起こしました。それでも子供達は帰って来ません。この日を境に家を、畑を、仕事の糧を、そして愛する家族を失った多くの人々。しかし、これは他人ごとではありません。私達もいつ「うめきと嘆き」のただ中に放り込まれるか分からないのです。しかし哀歌の
詩人は歌います。「主の慈しみは決して絶えない。主の憐みは決して尽きない。それは朝ごとに新たになる。」(3:22,23)み言葉をしっかり心に蓄えておくこと。これが私達のするべき一番大切な備えです。

-説教要旨

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